ブログの抜け殻

コロんでコロんでコロなりました

海外メディアの視点

メディアはもともと、下から、上の不正や権力による横暴を暴いて批判することがルーツです。 ですから、もともと、下から上への批判精神という批判的なバイアスがかかっています。 下の人たちの主観が反映されているのです。 

メディアは物でも神でも審判でもありません。 市井の人間がやっているんですから、もともと主観的なものです。

そのうえ、本来主観的なメディアは、こと異なる文化の事象に対しては、さらに批判的なバイアスがかかります。 自分たちとは異質のものをいぶかしく見る態度が加わるからです。 彼らが「自分の文化より劣っている」と思う国や文化圏については、自然とネガティブな表現になります。 これは、彼らが属する国や文化圏の人々の「自分たちはどこそこの国/文化よりも優れている」という偏見が、メディアにも反映しているからです。

もっと良く写った写真があったに違いないのに、何でこんな写真を載せたんだろう?と思ったり、どうしてこんなひどい書き方をするんだろう? と、読む人が不快に感じるのは、メディアのそういったバイアスがかかっているからです。

フランスの新聞がイスラム文化圏についてシャレにならない風刺画を載せたり、どっかの欧米メディアがオリンピックのロゴをコロナウィルスに変えた失礼なものを掲載するのは、彼らのこのような主観的なバイアスがその原因です。 それから、「東洋の魔女」というのもそうです。 キリスト教圏の西洋人が「魔女」と言ったら、良い存在のはずがないんだよ。 30年以上前に、「(私たちのビートルズジョン・レノンを誘惑して手玉に取っりやがった)オノ・ヨーコは、魔女だ」というイギリス人の言葉を聞いた時、そうなんだ、「魔女」という形容は否定的な意味で使うんだ、と知りました。 もっとも、そのように異文化圏の人や物事を悪く形容する主観バイアスがある彼らは、自分たちは客観的な立場から報道している、と言います。 それはある意味、そうなのです、だって、彼らは彼らの文化圏の中では客観的だ、と思っているからです。 そして、彼らは彼らの文化圏の外に出ることはありません。出る必要がないと思っているからです。

「国際メディア」とは「旧宗主国のメディア」という意味なのですが、植民地になったことがない日本人は、それがよくわからないのです。 

よくわからないということは、じつは、とっても良いことなんです。 もう20年以上も昔になりますが、ある国にいたとき、私がジャマイカ出身のクラスメートに「自分は英語が下手だ」と語ったら、彼女は「英語を話す必要がなかったからでしょ?」と言いました。  

そうなんです。 英語が下手なことは、宗主国の言葉である英語を強制的に話さなければならない必要がない、とも言えるのです。

言葉とは、かくも重い、深刻なものなのです。 聖書の「はじめに、言葉があった」という文章は、とても暗示的です。

訪れた先の国の言葉を話さないということは、その国の人の心の機微がわからない、ということであり、その国の人と彼らの文化や風習に敬意を払う気持ちが無いことでもあります。 とある国で起きた洪水の被害を取材に行った欧米メディアの記者が現地の人々に取り囲まれて脅されたといってジャーナリズムの自由を脅かすものだ!と書きたてましたが、おそらく、その国の被害地で、地元の人たちの気持ちに土足で踏み込むようなことをしたんでしょう。 「国民に外国人を敵視させるような国策をとっている」こともあるかもしれませんが、それ以前の問題として、被害に遭って苦しむ人たちの心情に無頓着にズケズケ入り込んで他人事のようにウロウロして、とりわけ惨状が激しいところばかりを意識的に強調するかのような取材をしたんでしょう。 だから、地元の人たちが激怒したんだろう、と、日本人であれば、なんとなく察しがついているはずです。 とても不思議なことに、「権威ある」と自賛する欧米メディアは、人間として普通「わかるだろっ!」ってことが、わからないんです。 欧米メディアのこのようなスタンスは、3.11後の日本の被災地でも繰り広げられたことを、当時の職場で私は欧米メディア出身の欧米人から聞いて知っています。 どんなに「すこしでも真実を伝えるためなのだ」と崇高に聞こえることを言っても、権威あるその錦の御旗の裏にベッタリと貼り付いている本心が透けて見えるんですよ。 被災地でメディアの心無い取材に傷ついた被災者の人たちがたくさんいらっしゃるだろう、と想像します。

そういうことがわかってくると、欧米のメディアがどうして失礼な報道をするのかが、わかってきます。 そして、欧米のメディアが自分たちをどう評価しているか?をいちいち気にしたり、欧米のメディアに好意的に書いてもらいたいと、こっちの筋を曲げてまでヘコヘコして彼らの便宜を必死にはかることが、いかにバカバカしくトンチンカンで自分たちの善意の愚かな無駄づかいであるかということが、わかるのです。 取り囲むとまではいかないまでも、眉にツバつけて盛り塩をしてニンニクをふりかざしながら彼らの記事を読むことができるようになります。

最後に、海外メディアの記者たちを取材する日本メディアの記者たちも、そんな彼らの性質をちゃんと理解して記事を書いているようです。 日本人のコメントではめったにお目にかからない、目下の者たちに馴れ馴れしく話しかけるような「だよ。」「だね。」言葉で、彼らのコメントを日本語に翻訳しています。

 

ぼんやりぶろぐ